img_02

基礎から学ぶ北海道スキー旅行について

私は著渓堂の『山で唄う歌』上下二冊をその女性に渡して、そのなかの歌から始めてくれるように頼んだ。 そこには、日本産の歌のほかに、欧米の民謡もH詞で入っており、私の気に入りの歌集であった。
いまにして思うことは、あの歌集にもう少し南米の民謡を加えれば、もっとよくなるであろう。 やがて、私はくだんの女教師に次の注文をした。
その時の彼女の反応は意外にも、けんもほろろであった。 そんなわけで、「空の神兵」も「軍艦マーチ」も彼女と一緒に練習することはできなかったが、もともと誰でも知っている曲だから、自分たちではよく歌った。
軍歌否定主義者であったこの先生が、ある日「ラーマルセーエーズを歌いましょう」といったので、私は思わず失笑した。 ラーマルセーエーズは軍歌の王様ではないか。
歌詞には「敵の血を畑の溝に流して、ジャガイモを作れ」といった部分もある。 ラーマルセーエーズで思い出すのは、映画「カサブランカ」の一場面である。
あるナイトクラブでドイツの軍人がビールを飲みながら放歌高唱している。 そこに現れたフランス抵抗運動の闘士がラーマルセーエーズを歌い始める。
ドイツ軍人のテーブルでは一段と歌声が高まる。 ラーマルセーエーズの合唱は、次第に大きくなり、ドイツ軍の歌声をついに圧倒してしまう。
ドイツ軍人にくっついていたフランスの売春婦までがラーマルセーエーズの大合唱に和し、涙を流すという場面である。 ドイツ人はビールを飲めば歌い出す。

ドイツの学生歌集は、ビールでぬれないように表紙の四隅に鋲が打ってあり、テーブルと本の間に空間を作る仕組みになっている。 私か北大の山岳部にいた頃、まず教えられたのはドイツの歌であった。
感傷的な日本の軍歌に比べるとドイツの歌は明るい。 ドイツの軍人が歌っているそれらの歌詞は、ほとんどが森番の娘への想いを歌ったようなもので、日本の軍歌のように忠君愛国を繰り言のようにかたるものではない。
ドイツの歌は、軍人が歌っていても、もとは民謡なのであって軍歌として作られたものではないのだ。 「パンツアー・リード」のように戦車隊の前進を歌い上げる歌詞もあるにはあるが、そういう純粋軍歌は少なく、たいていは民謡を軍歌に転用していることが多い。
したがって本当の軍歌ではない。 もとが明朗で快活な歌だから、軍歌にも転用できるにすぎない。
山岳部で歌っても、ちっともおかしくない歌である。 作品で、駆逐艦の船長をロバート・ `泌ツチャムが、潜水艦の船長をクルトーユルゲンスが演じた。
この映画ではそれこそドイツの民謡が次々に出てきたが、最後に戦友の遺体を海葬する場面がある。 バックに「デルーグーテーカメラード」の曲が静かに流れる。
ドイツでは戦友を埋葬するときにこれを歌う習慣になっているが、ドイツの登山家が山に逝った仲間を弔うときにもこれを歌う。 なんでもよいが、死人を弔う歌も、きめていなきや、みんなで歌うこともできない道理であろう。

合唱をすすめたりすると、特に軍歌をそのなかに入れようものなら、ファシズムの首謀者のようにいわれることもある。 私にむかって「軍歌は歌ではありません」といった女性もラーマルセーエーズなら軍歌ではなくて革命歌だからよいとしたのかもしれない。
その論法でゆくと、インターナショナルの歌なども、共産主義者が歌う限り、軍歌でなくて革命歌だということになる。 日本の軍歌は、たいてい「皇軍は行く」式の歌詞で、右翼の宣伝力1が拡声器を最大にしてそれらを流しつづける限り、自由主義者の歌にはなりようがない。
曲がよくても、その歌詞を口にする気にならない。 軍艦マーチにいたってはパチンコ屋の店頭を思い出してどうにもならない。
日本人に自由主義の合唱が身につかない理由のひとつには、戦争に負けたことがあるのかもしれない。 力強い歌を合唱すれば、それがすぐファシズムの思い出につながると考えてしまうところに、合唱をやめてカラオケというソロに自閉的に心酔する原因があるのか。
カラオケで歌われる演歌の内容は「どうせ私は駄目なのよ」といった式の自慰であるから面白くない。 カラオケは道具に金がかかる。
合唱に金はいらないが選曲には意志の力が必要。 みんなが共通の歌を知っていなくては、そもそも合唱することができないからである。
そうであっても、山の仲間ぐらいは、なんとか合唱する能力を身につけてほしいものだ。 私は八九年の年の暮れに旧国鉄の水道橋駅でO西宏に初めて会った。

伊丹紹泰の紹介であった。 初対面のO西から得た私の第一印象は、あとで知ることになった彼の本当の姿とは逆のものであった。
人なつっこい彼の笑顔から最初に想像されたものは、頼りなげな好人物であったが、実際のO西は一本筋の通った男であった。 彼は、澄んだ一途な目をもっていた。
細面の色は白く、いまだ紅顔の少年という雰囲気を残していた。 初対面の一週間後に彼は名古屋へやって来て、私の病院の四階でマカルー登山隊の準備作業を始めた。
私は、一九九〇年春のマカルー登山の許可証をもっていた。 メンバーは、私とO西のほかにポ圭フンドからワンダールトキェビッチとエヴアーヴァンケビッチの二女性が参加することになっていた。
サーダーはラクパーテンジンときまっていた。 O西の仕事は、マカルー遠征隊の実務をやることだった。
枠組みのきめられたヒマラヤ遠征隊の下働き役であった。 荷物を集めることから始めて、梱包、通関までのすべてをO西が一人でやった。
この作業に対するO西の子不ルギー消費はかなり大きかったはずだが、それを誰の于も借りずに一人でやったところがO西らしいということになる。 私の使用人の何人かが手伝いを申し入れたが、みなそれとなく断られたという。
O西は決して他人に命令するタイプではなかったから。 私は職務があったので、O西の作業を手伝わなかったし、みることさえしなかった。

一度だけ私は、O西を車に乗せて梱包材料を売る店を探しに上前津のあたりへ行ったが、助手席で地図をみながらO西が私に道を教え、店の前で彼を降ろした私は、そこで御役放免になった。 あとは、出発がせまってから、私の個人用高所装備を荷造り場の隅へ置いてきただけである。
マカルーへの接近は困難だった。 最奥部落のセドアで雨に降り込められた登山隊は、シプトン峠を前にして、一週間の停滞を余儀なくされた。
はやるワンダは一日でも早くセドアを出発したいという。 そこで私は、ラクパーテンジンに、シェルパを一人つけてワンダとエヴアを先行させるように命じた。
食糧は、隊荷から適当に二人分選んで与えよ、と指示した。 そのときの私は、二人の女性から離れられることを喜んでいた。
あの女流登山家ワンダは、物静かなみせかけとちがって、実際の活動の場では、細かいうえに攻撃的な性格で、私のように大雑把な人間では、とてもいちいち相手をしておれないことがわかり始めていたからである。 O西は、ワンダがいつももめ事を起こす女であるという風評に従った先入観をもっていたようである。
ワンダには子供のままの性格が残っていたと解釈すべきかもしれない。 エヴァはなにも問題のないよい仲間であったが、ワンダの扱いは確かにむずかしかった。
特に頑固なO西の性格と、女王でいたいワンダの性格とは相容れなかった。